2023.06.09
# ノンフィクション

中学卒業までに「160回転校した」サーカス芸人の誇りと孤独…話題作『サーカスの子』試し読み!

幼少期を「サーカス」で過ごした作家・稲泉連氏の自伝的ノンフィクション『サーカスの子』が話題だ。1970年代後半から80年代に人気絶頂を迎えたキグレサーカスは、家族ぐるみで全国を渡り歩く「共同体」だった。約40年ぶりに、かつて共に暮らした芸人たちを訪ねた著者は、華やかなショーの舞台裏と、彼らの数奇な人生を描いていく。サーカスで生まれ育った空中ブランコのスター芸人「兵藤健さん」が語ったのは…。(本記事は『サーカスの子』の一部を抜粋し、WEB用に再編集したものです。)

元スター芸人が「歯を全て失った」理由

二〇二一年十月二十五日、東中野駅で待ち合わせをした兵藤健さんは、僕とキグレサーカスの元ピエロである宇根元由紀さんを見つけると、マスク越しにちょっといたずらっぽい笑みを浮かべて手を挙げた。

「おお、れんれんか。いつぶりだろうな」

僕を当時のままにサーカスでの呼び名で呼んだ彼と、映画館のポレポレ東中野の一階にあるカフェまで歩く。

コーヒーを頼んでマスクを外すと、もうすぐ六十五歳になるという彼の口元には立派な白髪交じりの髭がたくわえられていた。

「実はさ、俺、歯を全部抜いちゃったんだよな。だから、口ひげでも生やさないと貧相に見えるだろ」

健さん─ここではやはり健兄さんと呼ぼう─は、当時のサーカスでの花形スター芸人だった。空中ブランコの中台を担当し、一本綱や空中アクロバットでも見事な芸を見せていた人だ。僕がキグレサーカスにいた頃、彼は芸人として最も脂ののった二十代だった。

サーカスの子 稲泉連サーカスの子 稲泉連

一九八九年一月、東京ドームの隣の後楽園球場跡地での公演で、健兄さんは三十一歳の時にサーカスを降りた。このお正月公演は昭和天皇の崩御で最後まで行われず、彼はトランポリンチームにいた妻とこれから小学生になる娘と三人でサーカスを去った。

その後、とび職やタクシー運転手をした後、この二十年間は神奈川県鶴見の工場で焼き付け塗装の仕事をしてきたという。現在は東南アジアから働きに来た社員の教育係として、iPhoneの翻訳機能を何とか駆使しながら技術を教えている。

健兄さんが歯を抜いたのは、空中ブランコの中台を長く続けてきたことが理由だった。撞木から飛んでくる芸人の手をつかむとき、腕にかかる重さを受け止めるために、歯をぐっと強い力で嚙みしめる。長くその役割を担ってきたからだろう。あるとき、痛みを感じて歯医者に行くと、「歯の根が曲がっていて、抜く以外に治療の方法がない」と言われた。レントゲンを見せてもらうと、全ての歯の根がきれいに同じ方に曲がっていた。

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